Adolescence’s End or Adulthood's Beginning
『
木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』制作決定!
の知らせを、2005年の12月に、何度目かの深夜の再放送で得た訳だが、その時の私の正直な気持ちは、
(・・・・・・・微妙)
だった。
なんで素直に喜べなかったかと言ったら、私の中で『
木更津キャッツアイ』という物語は既に、ドラマ版全9話で完結していたからだ。
奇跡の映画化『日本シリーズ』も、
(別にやんなくてもいいのに)
と思っていたけれど、
『これはファンサービス』として、お祭り騒ぎを楽しむことができた。
それを映画からは3年、ドラマの終了からは4年以上もたつ今頃になって、私の中に『殿堂入り』のラベルを貼られて冷凍保存されていたその感情を、わざわざ取り出してきて、解凍して眺める気持ちにはなれなかった。
解凍したら品質が変わってしまう。
そして、新しい『何か』を見てしまったら、絶対そのことに影響を受けてしまって、それまで大切にしまってきた感情が変化してしまう。
それが怖かった。
『
木更津キャッツアイ』という作品は、その話の骨格自体は、オーソドックスな青春群像劇だ。
しかし一見してそうは思えないのは、その骨格が傍目には見えなくなる程、余剰で過剰なアレコレで装飾されていたからだ。
視聴者の予想の斜め上を突っ切って行きながら、ふと気づくと『しかるべき地点』に着地しているストーリー。
緻密な計算と、怜悧な知性。
オフビートなギャグにまぎれて、時折暴走する狂気と野蛮な情動。
そうした相反する要素が、分裂することも無く、不思議なバランスで成り立っているドラマだった。
そして、
宮藤官九郎という人は、大人の計算で物語を紡いではいるけれど、その一方で、未だに思春期性を強く保っている作家だと、感じた。
思春期のキーワードは羞恥心。
前髪が決まらないとか、授業中おなかが鳴ってしまったとか、大人から見たら些末なことが狂おしい程に気になる、そういう心性。
クリエーターっていうのは自意識の塊だから、「これやったら恥ずかしい」と考える範囲がものすごく広いのだろう。そもそも作品作って自己主張するあたりが既に恥ずかしいことなので、せめて自分が恥ずかしくないあたりで、モノを作っていこうとしているのだと思う。
だから、
『死ぬのは怖い』
『死なれるのは辛い』
そういう普遍的な感情を描くのにも、ありきたりなエピソードを用意したりはしなかった。
父親は息子の死期を知った時に、女装で歌い。
息子は肉まんで顔をぱんぱんに膨らませながら、「死ぬのって怖えな」と呟く。
どちらもマヌケなことこの上ない絵面なのに、この上なく切ないシーンだ。
その一方で、主人公のいまわの際(仮)シーンは、音声が無い予告では、普通にシリアスなシーンだったのに、音声が入った本編は、抱腹絶倒のお笑いシーンになっていた。
『死』という重いテーマを扱っていても、その単語から予想されるような湿っぽさや、分かりやすい悲劇性は、強迫的なまでに排除されていた。
私は、その描き方の独自性に驚喜したのだ。
どうやっても、作家の思考には追いつけなかった。何度も何度もだまされた。
作劇が技巧的なものであればある程、熱狂できた。
それらは、この上も無い快楽だった。
いつからだろう。
人の死を『商品』として消費することに、抵抗を感じるようになったのは。
4年前なら、それが出来た。とても無自覚に。とても無邪気に。
当時の私にとって『死』とはまだ、どこか遠くの出来事だったから。
だから、人ごととして、作品として、無責任に他人の『死』をフィクションとして消費することが出来ていた。
もしもそれを不謹慎だと咎める人間がいたならば、それは無駄に年を取った人間の、錆び付いた感性が言わせた戯言だと、鼻で嗤っていたことだろう。
要するに、私も4年分年を取り、それだけ色々な出来事にあったということだ。
大学の時の先輩が、持病も無かったのに突然死んだり。
仕事先での直接的、間接的に知り合いの死に遭遇したり。
肺ガンで余命2年を告げられた私とほぼ同年齢のライター(http://www.publiday.com/blog/adrift/)が、死の間際までリアルタイムで書き綴ったブログを読んで、リアルな嘘と、嘘くさいリアルの境界線について考えたり。
そんな経験が増えるにつれて、『死』はもう私にとっても、『他人事』ではなくなってしまった。
もし今の自分が、全く予備知識無くドラマ版を見ていたとしたら、あそこまで熱中できていただろうかと、ふと考えることがある。
微妙に物の見方が変化してしまった今の自分が『ワールドシリーズ』を見て、もしも楽しめなかったとしても、それは作品の問題なのか、作品を享受する自分の側の問題なのか、判別できる気がしなかった。
それが、制作発表を聞いた直後の気持ちで、だから、気持ちは凪いでいて、
(今更作って欲しくもなかったけど、決まったのなら仕方が無いね)
くらいに醒めていた。
ただ、完結編の知らせから半年たって、ネタバレを遮断していても耳に入ってくる断片的な情報を聞くうちに、私もゆっくりと心の準備ができてきた。
ドラマの終了直後に見ていたら『堕落だ』と思っていたかもしれない変容も、今なら『成熟』として受け止められるだろう。年をとって変わったのは私だけでなく、多分作り手たちもそうなのだから。
こういう言い方は下世話かもしれないが、クドカンも父親になってしまい、生命エネルギーの塊を目の当たりにしてしまったから、前のように死をネタに笑いをとるようなことには、どこか抵抗が生まれてきてしまったのではないかと思う。
おそらく、今回の完結編はもう、主人公のための話ではない。
彼に遺された人たちの、喪失と再生の物語だ。
現実世界で経過した時間も物語の中に組み込んで、そして、3年前には直面するのが恥ずかしくて、なんとなくはぐらかしてやり過ごしてきた大人になるための通過儀礼を、もう一度やり直すのだろう。
木更津という閉じた世界の中で、彼らは主人公を中心に、心地の良いモラトリアムの時代を漂っていた。
だが、永遠に続くかのように思えた穏やかな時間は、主人公の死とともに終わりを告げる。
求心力を無くした彼らは、自ずと外に向かって拡散していくしかなかっただろう。
ゆっくりと。とても静かに。それでも確実に、元居た場所からは遠ざかる。
そして、時間的にも空間的にも、遠く離れたどこかの場所から、かつて自分がいた場所を振り返った時にようやく、ある時代の中に居た自分を客観的に眺めることができるようになる。
遅れてきた客観視の中で、親友の死が、自分にとってどんな意味を持っていたのか。それに気づいた時。
3年前には言えなかった『さよなら』を言うのだろう。
それは同時に、彼らが少年期に終わりを告げる言葉でもあるはずだ。